2023年10月18日21:00~21:57にて
『ワールド極限ミステリー★監禁127日!ペルー日本大使公邸人質事件から奇跡の脱出』
が放送されます。
気になる番組内容は以下です。
なんとあの人気番組『VIVANT』で描かれた事件のようです。
そして番組内でおそらくメインの人物となる【16歳のテロリスト少女】・・
果たしてそのような若者を犯人として巻き込んだ【ペルー日本大使公邸占拠事件】は一体どのようなものだったのでしょうか。
また現在テロリストだった16歳の少女の現在の情報はあるのでしょうか。
そこで今回は『【ペルー日本大使公邸占拠事件】犯人テロリストの16歳少女は誰?現在の顔写真は?日本人が人質監禁のVIVANTモデル事件!』と題して
②犯人テロリストの16歳少女は誰で現在は?
についてお伝えしたいと思います。
では一緒に見ていきましょう。
ペルー日本大使公邸占拠事件について
ペルー日本大使公邸占拠事件は、1996年12月17日に始まり、1997年4月22日に終結した国際的に注目された事件で、以下に詳細を説明します。
事件の背景
ペルーはこの時期、内政的な不安定さと左派の反政府武装組織による暴力活動が続いていた時期でした。
MRTA(Túpac Amaru Revolutionary Movement)は、左派のゲリラ組織で、政府に反対する運動を展開していました。この組織は政治犯の釈放や社会的な改革を要求する目的で、国内外の注目を浴びる事件を企画していました。
占拠の始まり
1996年12月17日、MRTAのメンバーが日本大使公邸を占拠し、多くの人質を取りました。
この公邸はリマの中心部に位置し、日本政府の外交施設であり、日本の大使Akihisa Nagashimaを含む外交官やその家族、および訪問客が含まれていました。
犯人の要求
MRTAは政府に対して釈放すべき政治犯のリストを提出し、彼らの要求が受け入れられるまで人質を解放しないと宣言しました。
彼らはまた、彼らのメッセージが国際的に伝わることを期待していました。
交渉と緊張
ペルー政府は交渉を試み、人質の解放を求めました。しかし、交渉は難航し、事件は数ヶ月にわたって続きました。
この期間中、人質たちは非常に困難な状況に置かれ、食料や医療の不足に苦しむこととなりました。
強制突入と結末
1997年4月22日、ペルー政府は人質を救出し、事件を終結させるために特殊部隊を動員しました。特殊部隊は日本大使公邸に突入し、MRTAメンバーとの銃撃戦が勃発しました。
人質の一部は解放されましたが、いくつかのMRTAメンバーと日本大使Nagashimaも犠牲となりました。事件の結末は国際的に広く報道され、議論を呼び起こしました。
この事件は、ペルー政府の反政府武装組織に対する対策や、国際社会における外交政策に影響を与えました。また、ペルー国内でも政治的な議論を引き起こし、国内治安の改善を求める動きが強まりました。
事件の概要
上で説明したペルー日本大使公邸占拠事件の概要をまとめます。
1996年12月17日
場所:
ペルーの首都リマにある日本大使公邸
犯人:
通称MRTA(左翼ゲリラのトゥパク・アマル革命運動)
目的:
仲間の釈放や身代金の支払い
被害状況:
①日本大使をはじめ各国の要人や企業関係の邦人ら最大約600人が人質となる
②犠牲者は人質のペルー最高裁判事と特殊部隊の兵士計3人
③日本人の犠牲者は1人
事件の終息:
フジモリ大統領の命令で武力行使により終結(犯行メンバー14人は全員射殺)
事件発生から127日後の4月22日に終息
果たしてなぜテロリストたちはこのような残虐な事件に携わったのでしょう。
犯人テロリストの16歳少女を含む若者についてみていきましょう。
犯人テロリストの16歳少女は誰で現在は?
このペルー日本大使公邸占拠事件に関与した人々の中に、16歳の少女が含まれていたとの情報があります。
その思想と手段に同意できないとしても、「社会正義を求める」初心は疑うべくもない人びとの、(最年少の少女の場合には、僅か十六年間でしかなかった)人生が見えてくる。
実際、テロ実行メンバーは当初、14人で構成されており、そのうち2人は女性で、最年少の1人は16歳でした。
また、若いメンバーは、幹部からの指示に従い、政府の武力行使が迫ってきた場合には、当時の日本大使館である青木盛久さんと共に道連れになるよう指示を受けていました。
127日間にわたる監禁生活の末、ペルー政府は幹部の予期通りに武力行使を実行することを決定し、ペルー特殊部隊が突入しました。しかし、特殊部隊は青木盛久さんを射撃することはなく、彼らは後退して逃げたと言われています。
彼らは『武力突入があればいっしょに死んでもらう』と(人質に)述べていたのにもかかわらず、人質を道連れにしなかった。
引用:現代ビジネス
この出来事について、当事者である青木盛久氏は、「4ヶ月もの間、テロリストと一緒に過ごしたことで、彼らに対する感情が移り、最終的に射撃することができなかった」と述べています。
この時にキーとなったのが日本食なんですかね!
犯人テロリストの16歳少女の名前はモニカか
ウェブ上の情報によれば、ペルー日本大使公邸占拠事件において、16歳の少女テロリストであるモニカ・エルティスは、MRTA(トゥパク・アマル革命運動)のメンバーでした。
この事件が発生した際、モニカはまだ15歳であり、彼女はペルーの貧困層出身でした。
人質となった日本人たちと交流し、彼らに対して日本食を作ったり、日本語を教えたりする機会がありました。人質たちは彼女を「モニ」という愛称で呼び、彼女も人質たちから好意を受けていたようです。
しかし、1997年4月22日にペルー軍が突入作戦を実行すると、モニカも他のゲリラメンバーと共に武器を持って抵抗しました。
その際、彼女は人質の一人である鈴木英夫さんに銃を向けましたが、鈴木さんが「モニカ、撃つな」と叫んだ瞬間、彼女は一瞬ためらいました。その隙に、鈴木さんは彼女から銃を奪い、自身の命を守ったと報告されています。
その後、モニカ・エルティスはペルー軍によって射殺され、彼女の遺体は他のゲリラメンバーとともに大使公邸から運び出され、メディアに無残な姿で晒されました。
青木盛久大使が当時の出来事を語る際、彼の語りに合わせて表示される画像には、口元を赤いバンダナで隠しているが可愛らしい少女の姿が映っていました。この映像は19分から再生できます。
なぜ彼女はテロリストになったのか
16歳の少女テロリストが、ペルー日本大使公邸占拠事件に参加した事実が明らかになりました。
彼女はMRTA(トゥパク・アマル革命運動)のコマンドリーダーであるエドガル・サンチェスの娘でした。
彼女の両親はテロリストであり、母親は1995年に亡くなり、父親は1992年に逮捕されたため、父親の釈放を求めて事件に参加したとされています。
別の情報源では、彼女は事件の犯人であると同時に、事件の被害者でもあったと述べられています。
彼女の行動が彼女自身の信念や理想に基づいてのものなのか、それとも洗脳されて利用されたのか、真相は不明です。
真実が明らかになった際に情報を追加する予定ですが、16歳の少女が貧困層出身であったとの報道があるため、彼女が貧困からくる苦労に直面し、紛争国で少年兵として利用される社会問題が多発していることから、その可能性も考慮されているかもしれません。
他の少年少女の生い立ちは?
犯罪組織に雇われた主要メンバー以外の未成年者は、ペルー北東部のジャングル地帯で生まれた貧困層の子供で、ジャングル地域で素人として訓練を受けた者でした。
主要メンバー4人を除く10人のメンバーは、10代から20代の年齢で、貧しい生活状況のために小学校に通うこともできない状況でした。
MRTAからは、大使館襲撃に関与することで、1人あたり5,000ドル(当時の日本円に換算すると約50万円)の報酬で勧誘されたと言われています。
今でいう【闇バイト】に近い存在だったのかもしれません、、
かなり辛かったでしょうね。。
SNSでも少女たちに心を動かされる所感も多いようです。
1996年の在ペルー日本大使公邸占拠事件に触発されて書かれたものだそうです。あの事件、人質になった日本人のことしかおぼえてなかったんですけど、テロリストのほとんどが少年少女だったんですね…山村から50$で買われてきた普通の子どもたちだったとは。。
— 図子慧@『ここだけのお金の使い方アンソロジー』発売中♪(中公文庫) (@zusshy) October 22, 2019
概要は知っていたけど
当事者たちの生の証言には、やはり胸を打たれる。アマゾンから連れてこられた、アルバイト気分の若いテロリストたち。
カタカナひらがなが読めるようになり、
ピアノを教え、
日本料理店が心をつくした弁当に驚き、
手榴弾に代えてカップラーメンをリュックに詰め。— 田村淳彦 (@AtsuTam) March 3, 2020
次に4か月間の監禁を共にしたテロリストと人質の暮らしについてみていきましょう。
テロ犯罪グループの未成年者たちは、初めて接触した日本の文化や文明に深い感銘を受け、日本の人質も同様に彼らとの交流を深めることになったと言われています。
この監禁生活に関する話は驚くべきものですが、テロ犯罪グループの一員である少女の母親は、「娘は革命に興味があるわけではなく、外の世界を見てみたいと思ってMRTAに加わった」と語っていたとされています。
このため、彼らが他国の文化に魅了されることはごく自然なことかもしれません。
和食やインスタントラーメンが好評だったそうですね。
以下にテロリストと人質の監禁生活の中のエピソードをまとめます。
・人質たちはお互いにスペイン語や日本語を教え合っており、それに続いて、MRTAのメンバーも日本語の学習に参加し、しばらくの間で日本の人質を「さん」付けして呼ぶようになった。
・朝になるとみんなでラジオ体操第一を実施
・人質とMRTAのメンバーはサッカーの試合で対戦
・ギターを演奏しながら、一緒にラテン音楽を歌う友情を築く
・時間を過ごすために、トランプやオセロ、麻雀などのゲームを楽しんだことも
とても仲が良くなっていたようですね。
少女の現在は?
テロリストだった16歳の少女を含む14名。
その命はフジモリ大統領の命令で武力行使により
全員命を失いました。
なので現在の顔写真はありません。
恨まれながら命を失った少女。
やったことは許せませんが、それとは逆にどこか何とかならなかったのかと思ってしまいますね。
もし少女が生きていれば、今年43歳になっている頃かと思います。
好きな人を見つけて、結婚して、子供が生まれて、その子育て中だったかもしれません。
まとめ
今回は『【ペルー日本大使公邸占拠事件】犯人テロリストの16歳少女は誰?現在の顔写真は?日本人が人質監禁のVIVANTモデル事件!』と題して
②犯人テロリストの16歳少女は誰で現在は?
についてお伝えしました。
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